今日をどう過ごそうか

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「価値」を宿す眼差し

こんにちは、ふたばとです。

最近悶々と考えている「価値」とは何なのか、そしてその価値はどこに宿るものなのかを学生時代の経験や今の仕事を交えながら整理してみました。

自分の研究に価値を感じられなかった学生時代

少し学生時代を振り返ります。 私は大学院で、連合学習という技術のセキュリティに関する研究をしていました。ありがたいことに論文賞をいただいたり査読を経て論文誌に採録されたりしましたが、自分の研究にあまり価値を感じられずにいる苦しい日々を過ごしていました。

連合学習は、データを各端末に置いたまま学習を行うというプライバシ保護の文脈で語られてきた技術です。応用例として知られていたユースケースは廃止され、別の方式に置き換えられました。そして近年のAI領域における関心は、生成AIをはじめとするLLMの普及・実用化のほうへと急速に移っていきました。 社会の中で連合学習が広く使われていく未来は、私には次第に遠いもののように見えてきました。

「誰も使わないかもしれない技術の、しかもそのセキュリティを考えることに何の意味があるのだろう」という問いが、頭の中から離れませんでした。加えて、自分の提案する手法にも限界が多く、これがあるからといって何かが変わっていくとはあまり思えない無力感がありました。

学術における「価値」の在り方

不思議なことに、自分は"無価値"だと思い込んでいたものが、賞をいただくなど評価をいただける場面がありました。なぜこれが評価いただけるのかが最初はよくわかりませんでしたが、社会人になったときにふと気づいたことがあります。

自分が無価値だと感じていたのは、「社会で使われるかどうか」という基準で見ていたからであって、学術の世界で評価されていたのは別のことでした。 学術の世界が見ていたのは、これまでに積み重ねられてきた研究の蓄積に対して、自分の研究がどのような新しさを加えたのか、先行研究と誠実に向き合ったうえで何を一歩進めたのかというようなことだったように思います。 つまり学術における「価値」の在り方は、今すぐに社会で使われるかどうかとは独立したものでした。

ビジネスの文脈で『価値』という言葉を咀嚼する

社会に出て最初に出会ったのは、「顧客にとっての価値とは何か」を徹底的に考えるという文化でした。

少し「価値」という言葉をビジネスの視点で噛み砕いてみます。

「価値」という言葉の多面性

まず、「価値」という言葉は、文脈によってまったく異なるものを指します。 経済学的な意味での価値もあれば、倫理的・道徳的な意味での価値もあります。何かの役に立つから価値があるという道具的価値もあれば、それ自体に価値があるという内在的価値もあります。個人にとっての価値もあれば、社会にとっての価値もあります。

「価値」とは、一つの体系で測れるものではなく、複数の体系がそれぞれに「これが価値だ」と語っているような、広がりを持った言葉なのだと感じます。

価値は受け手の主観で決まる

ビジネスにおける価値は、提供する側の都合ではなく、受け取る側の主観で決まります。

経済学の歴史を辿ると、価値の捉え方には大きなパラダイムシフトがありました。 古典派の客観価値説は、投下された労働時間や生産コストの積み重ねで価値が決まると考えていました。労働価値説に代表される、生産者視点でコストをベースに価値を捉える考え方です。

これに対し、現代やオーストリア学派が支持する主観価値説では、価値は顧客が「どれだけ欲しいか」という希少性と欲望の度合いで決まります。限界効用の概念に基づき、顧客視点で「いくらまで支払う意思があるか(Willingness To Pay)」を価値の指標とする考え方です。

そして、マーケティングの文脈では、顧客知覚価値という考え方があります。価値とは、顧客にとっての効用から費用を差し引いたもの、つまり「価値 = 効用 − 費用」として捉えるものです。 効用には、機能的便益、情緒的便益、体験・空間といったプラス要因が含まれます。 費用には、金銭的コストだけでなく、時間的コスト、身体的疲労、心理的ストレスといったマイナス要因が含まれます。

そして、作り手がどれだけ苦労して作ったかは、この式の中には入りません。 顧客にとっての効用と費用の差分が、その人にとっての価値の大きさになります。

顧客は製品を"雇って"いる

ジョブ理論という考え方があります。顧客は特定の状況で「片づけたい用事(ジョブ)」を完了するために製品を購入・雇用するというものです。 有名なたとえに、このようなものがあります。

顧客は1/4インチのドリルが欲しいのではなく、1/4インチの穴を開けたいのだ。

顧客が対価を払っているのは製品そのものではなく、片づけたいジョブが完了することに対してです。 つまり、現状から理想の状態への進歩を実現することに価値が宿ります。製品はあくまでその手段であって、目的ではありません。

こうした考え方を日々叩き込まれていく中で、ひとつの認識が自然と備わっていきました。 ビジネスにおいて、多くの場合、技術は手段なのだということです。どんなに高度な技術であっても、顧客のジョブを片づけない限り、価値にはなりません。

不確実性の中で価値を届ける

ここで難しいのは、顧客にとって何が価値になるのかを事前に正確に知ることはできないということです。顧客自身も、自分の本当のジョブを言語化できないことが多くあります。

加えて、ビジネスとして事業を継続するには、開発のリソースを確保し続ける必要があります。投資家や経営層に対して、自分たちが価値を生み出している事実を示し続けなければ、継続的に作り続けることもできません。

つまり、完璧なものを作り上げてから提供するというやり方は、不確実性の高さに加えて、事業構造の上でも現実的ではありません。作る側は不確実性を抱えたまま、何かを差し出すしかありません。 この不確実性に対するひとつのアプローチが、リーン開発で語られるMVP(Minimum Viable Product)の考え方です。

Henrik Kniberg氏の「Making sense of MVP」では、完成形である自動車を目指して部品を順に作っていくのではなく、最初に「移動する」というジョブを片づけられるスケートボードを作り、そこから自転車、バイク、自動車へと進化させていく図が示されています。各段階で「価値を届けられるもの」を出すことで、その都度、顧客の反応から学習を重ねていくという考え方です。

blog.crisp.se

ただし、この考え方に乗っかるためには、その前段で考えるべきことがあります。 「私たちにとってのスケートボードとは何なのか」「私たちが顧客に届けたい価値はどこにあって、片づけたいジョブはどれなのか」、これが曖昧なまま「リーンに小さく作ろう」としても、結局は分割されたタイヤが出来上がるだけで、価値を誰にも届けることはできません。 つまり、リーンに進めるという作法以前に、何のために・誰のために作るのかという、目的や課題の設定が極めて重要になるのです。

あらゆるものが手段化する現代

ここまで、目的や課題の設定が重要であるという話をしてきました。 この観点から技術の歴史を振り返ってみると、技術がビジネスにもたらしてきた価値、つまりどのような目的に紐づいてきたかは時代とともに移り変わっていきました。

IT革命期、技術は効率化という価値を生み出していました。 それまで人の手で行われていた集計や記録といった作業がシステムに置き換わり、より速く、より安く、同じ仕事をこなせるようになりました。

SaaSやDXの時代になると、価値の中心は体験と継続へと移っていきます。 ソフトウェアは一度売って終わりではなく、使い続けてもらうものになりました。提供者は、顧客が使いながら成果を出し続けられるかを問われるようになり、その過程で得られる体験そのものが価値の一部となっていきました。

そして近年、AI時代に入って、効率化や体験を超えた新しい価値の層が現れつつあります。 AIが創造や意思決定そのものに関わり始め、文章を書く、情報を整理する、選択肢を比較検討するといった、かつて人の頭の中で行われていた営みの一部を肩代わりするようになってきました。「メールを書こうとすると下書きがすでに提示されている」というように、人が作業を始める前にジョブの一部が完了している場面も増えています。

こうした流れの中で、かつては人間の"技能"として価値を持っていたもの、例えばコードを書くこと、スライドを作ること、分析することなどがAIによって代替可能な"手段"へと変わりつつあります。 それらが目的であった頃は、その営み自体に価値が見出されていました。しかしAIによって代替可能になった瞬間、それらは手段のひとつとして相対化されていきます。

そして手段は目的に紐づいて初めて価値を持ちます。 では、目的を持たないものは、無価値なのでしょうか。

目的を持たないものは無価値なのか?

目的に奉仕する手段としてではなく、営みそのものに宿る「価値」もあるのではないかと考えます。

私は連合学習という技術にあまり価値を感じられずにいましたが、それは「社会で今すぐに役に立つかどうか」という眼差しで自分の研究を見ていたからでした。一方で、その同じ研究が学術の場では評価いただける場面もありました。学術における「価値」の在り方は、今すぐに社会で使われるかどうかとは独立したものであり、私の研究は学術の世界での積み重ねるという「営みへの誠実さ」に対し評価いただいたのかなと感じます。

ここで気づいたのは、同じ対象を見ているはずなのに、眼差しが異なれば「価値」の映り方そのものが変わってしまうということでした。

そして大学院で研究をしていたときには、このような問い方はしていませんでした。さらに「目的を持たないものは無価値なのか」という問いそのものが、ビジネスの眼差しの中にいるからこそ浮かんでくるものでした。

つまり、どの眼差しの中にいるかによって、見える「価値」だけでなく、浮かぶ問いすらも変わってくるということです。

「価値」は最初から対象に備わっているのではなく、向き合う人の眼差しの中に宿るものなのかもしれません。

与えられた眼差しの中で

私たちはこの世界に身を置けば、自然とさまざまな眼差しを与えられます。

学術の世界に入れば、論文数や引用数といった研究者としての質を測る眼差しが与えられます。ビジネスの世界に入れば、売上やROIといったビジネスパーソンとしての成果を測る眼差しが与えられます。日常の中では、学歴や職業・結婚といった人としての到達点を測るような眼差しが向けられます。

話は逸れますが、最近では恋人を選ぶという極めて個人的なはずの場面ですら、相手の"スペック"を測る眼差しが当たり前のように差し向けられるようになりました。 スペックという、もともとは製品の仕様を指していた言葉が、人を測る言葉として違和感なく使われていて、それだけ、何かを測る眼差しが私たちの日常に深く入り込んでいるということなのだと思います。

これらの眼差しに対して、私たちは一定の折り合いをつけて適応していく必要があります。この世界に身を置いて誰かと関わりながら生きていく以上、完全に降りることはできないからです。

しかし、与えられた眼差しだけで自分自身を測ってしまうと、自分自身の「価値」が不安定になってしまいます。 誰かに直接言われたわけでもないのに、勝手に他人の目線を想像して、自分は何者でもないのだと悶々としてしまうのは、外から与えられた基準で自分自身を測ってしまっているからだと思います。 そしてその不安定さは、自分という存在そのものへの不確かさにつながっていきます。

美意識を定める

そうした不確かさに揺らされないためには、自分自身を支えてくれる物差しを自分の中に持っておく必要があると感じています。 自分がどの瞬間に心が満たされるのかを自分自身の感覚で知ること、自分がどんな眼差しで世界を見るのかを自分の感覚で選び取ることを、ここでは美意識と呼んでいます。

眼差しが変われば、映る「価値」が変わります。 美意識を持つとは、自分はどういう瞬間に心が満たされるのかを知ろうとすることなのだと思います。私自身まだその途上にいますが、自分はどんな眼差しで世界を見たいのかを、少しずつ自分で決められるようになりたいと感じています。

私の場合は、「誠実であること」という眼差しに従っているとき、自分を好きになれる気がします。 誰も見ていないところで手を抜かないこと、目の前の人に対して丁寧であること、そういった瞬間を積み重ねていきたいです。

「美意識を定める」という考えに至るまでの過程やそこから先で考えていることは、以前に書いた Absurd Meditations に詳しく記しています。ご興味があればそちらもあわせて読んでいただけますと幸いです。

01futabato10.hateblo.jp

まとめ

本稿では、「価値」とは何なのかという問いについて向き合ってみました。

価値は、最初から対象に備わっているのではなく、向き合う人の眼差しの中に宿るものなのかもしれません。この世界に身を置けば自然と与えられる眼差しが存在し、それと折り合いをつけながら生きていく必要があります。それでも、どんな眼差しで世界を見るのかは、自分自身で選び取っていきたいと感じています。